
2022年03月27日
人に口をつけたのは誰??

2022年03月20日
私たちは何を恐れるのか
こんにちは、マダムYです。
人の恐れが生み出す結果。
歴史も現代も共通しているようです。
今日のメッセージは藤井牧師。
詳しくはこちら
https://shinnakano.jpn.org/messages/post-2278/
2022/3/20 礼拝説教
【テーマ】 神は見捨てない
【説教題】 「母の心の叫びが神に届いた」
【聖書箇所】 出エジプト記1-2章
>私たちは何を恐れるのか。
>恐れるべきは神である。
助産婦たちは王を恐れるより、神を恐れた。
そして生まれてきた男の子を皆殺しから守った、その勇敢さが歴史に大きな影響を与えている。
>現代を生きている私たち。
>神を恐れているだろうか。
>歴史にどのような影響を与えようとしているのだろうか。
>神はこんな世を見てどうお感じだろうか。
エジプトの王はイスラエル人が増えることを恐れた。
ナイル川の葦の茂みに置かれた男の子の赤ん坊。
ファラオの娘が見つけ、かわいそうに思い、我が子にする。
神の不思議な業により、赤ん坊は乳母として実の産みの母の手に戻された。
神様は見捨てない
その時を待っている
メッセージの最後に藤本神学生が証をしてくださった。
3/16宮城アメージンググレースセンターにいた。
そこで体験した地震は震度6。
しかし全員が守られた。
神様が守り生かされていることを体験し、福音、献身の決意を新たにさせられた。
藤本神学生の派遣期間、4/3まで延期!
神学生本人の希望表明の上での実現となりました。
とは言えもうすぐ派遣期間が終了なんて、時の経つのは早く、さみしいですね。。。
そして、4/10から新しい神学生が派遣されます。
リバイバル祈祷会
礼拝堂で、兄弟姉妹心合わせてお祈りをしました。
︎大きな病と闘い、手術を受けることになった姉妹たちの回復のため
︎慢性的な症状を抱える姉妹たちの治療、回復、平安のため
︎結婚を控えた2人のため
︎出産を控えた姉妹のため
︎新型コロナの感染収束のため
︎神学生たちの学び、祝福のため
︎藤井牧師夫妻の健康、祝福のため
︎ウクライナと周辺国のため
教団がホームページで祈りの課題を掲げていますので、こちらも併せてぜひご覧ください。
❖ウクライナと近隣国からの祈りの要請 2022/3/18 update
https://j-ag.org/notice/update-on-prayer-for-ukraine-2022-03-18/
このあと、午後は定例会がもたれました。
コロナ禍の不安に追い打ちをかけるように、ロシアによるウクライナ侵攻が始まりました。
心休まらない世界情勢の中、主の御名により祈ることが最大の力であり解決策であることを信じ、今週も過ごしていきたいと思います。
礼拝の始まりは藤井牧師オリジナルソングから。
春のたんぽぽとの出会い
希望と勇気を与えてくれる歌です。
今日は東京の桜の開花宣言でした。
隣の庭の桜にも花がたくさんついていました。
青空のもと、教会の玄関も春で華やいでいました。
マダムYでした。
2022年03月16日
春を感じる「いつもの教会」
おごちゃんです。
なんかいきなり春めいて来ましたね。気温の高い日だと、西の方で夏日とか。そうかと思えば、夜は結構寒かったり。なかなか体調管理が難しいですねぇ。
さて、教会の様子です。
「いつものー」って感じなんですが、軽く「春」を感じる様子ですよ。
まぁ本当にいつもの図の、マナの集まり。
ちょっと嬉しいのは、男性用トイレとの間に衝立があることだったり。トイレ行く時に気まずいんだもん。
さーて、どこかで見た人がいますよ。
先日神学校を卒業したH神学生ですね。ご挨拶に来てくれました。隣りの女性は奥様で、一緒に卒業です。と書くと「一緒に入ったんなら一緒に卒業するのは当たり前では?」という声もあるんですが、なかなか大変だったみたいです。
赴任先は沖縄、那覇教会だそうです。
礼拝の始まる前、時計を見ると10:45くらいですね。
人数は少ないですが、なんとなく「いつもの」って感じがします。
そして開会の時。通訳に立ったので、始まる一瞬だけ前です。
そして、これはメッセージ直後。なかなか写真を撮るタイミングが取れないのです。
誰が増えたか、まるで間違い探しですねw
今日のメッセージのタイトルは、「ヤコブがイスラエルに変えられる」です。聖書の箇所は創世記35章。メッセージの内容は、いつもの通り教会のホームページから見れます。
私の手話通訳の語彙は、「手話訳聖書」に基くものです。手話訳聖書は未完なので、聖書の全部が手話になっているわけではないのですが、創世記は全部が訳されているので、割と楽です。とは言え、固有名詞が全部覚えられるわけもなく... そして、覚えたところで通じる保証もないというところで、なかなか厳しいです。まぁ少しづつ指文字でなく表現で通訳したいところです。
さて、会堂の後ろにはこんなものがありました。
見ての通りピロロンパイロン。後ろのディスプレイを囲むようにあったんで、何かあったのかなぁと思ったら、これは「子供センター」の卒園記念の品だそうで。よく見ると、何か描かれてますね。子供センターの子供が描いたものなんだそうです。
なんでも、子供達が駐車場のパイロンで遊んで壊したりしてるのを見て、新しいのを買って下さったんだそうで。パイロンって屋外に置いてある割には経年劣化して割れたりしますからねぇ。いろいろ気をつかっていただいて、ありがとうございます。
礼拝の後、急遽
こんなことを。
H神学生先生達が「手みやげ」を持って来られたし、せっかく来られたんだしということで、急遽募金をしてこんなことに。「エビで鯛を釣った」とかからかわれてましたけど、そんなことないですからねー。卒業式の後に来らる人はちょっと珍しいからですw
午後は部会とかやってました。
伝道部
人数が少ない? 先生が音楽部に行ってしまった後だということと、私が写真を撮ってるからです。
音楽部は練習をしていたようです。
実はイースターウェルカム礼拝の時のための練習です。そして、神学生は4月なのでいなくなるということで、ビデオ撮るの撮らんのって話があったのですが、入学式の日との関係で4月3日は派遣先が決まらないので、この教会に来るということにしてくれたそうです。誰も強制なんてしてないんですけどねー。
なんでのが教会の様子でした。全体的に「いつもの」って感じですけど、所々に「春」が感じられる出来事があるでしょう?
礼拝配信について
今回はエントリが短かかったからというわけではなくて、先日「どうやる?教会のライブ配信オンライントーク」というオンラインイベントに参加して、それで感じたことを。
件のイベントはどうも元々Facebookで活動しているグループのイベントらしいのですが、大坂先生がゲストで出るということだったので、「たまには大坂先生と話すのもいいな」という軽い気持ちで参加しました。ホストは片岡さんと言って、元々テレビ業界(制作)をやっていた伝道師の方です。
内容は「これから配信をします」という感じのところに向けての軽い技術的な話題が主だったので、私としては特別目新しい感じのことはなくて、「みんなこの辺で苦労してるんだなぁ」という感じでした。
私は元々テレビ業界(技術)に長くいましたし今はIT業界でハードもソフトもネットもやっているので、技術的な課題は特に感じていません。要するに本当に「プロ」ですから、再現性良く出来て当然なんです。「出来て当然」のところに落とし込むのがプロの仕事なので。
だからそういったことよりも、
いかにして「礼拝」を届けるか
というキリスト教会固有のソフトの部分に課題を感じています。
もうかれこれ2年くらい配信を運用して来て、機材もそれなりに揃えていて、配信の質はかなり向上していると思います。YouTubeとの「付き合い方」もわかって来たので、著作権団体からの妙なクレームが来たりそれによって中継が中断してしまうということもなくなりました。最近では、私ではなくて他の人(M姉)がやってくれる程度には、確立したものとなっています。もちろん今も細かいトラブルやミスはあるのですが、それで致命的なことが起きたりはしない程度になっています。
そんなふうに「出来て当然」となって来ると、長くネット礼拝だけで参加している人達の中には、ネット礼拝を「コンテンツ」と見做し始めている人達がいるようになります。つまり、テレビ番組を見ているような感覚になってしまう。実はこれはかなり早い時期から感じていたのですが、FEBCでも「ネット礼拝以後の教会」みたいな話がされていて、一つの共通課題なんだなということも知りました。ネット礼拝が確実に出来るようになると、「コンテンツ化」してしまうのです。
たとえば、伝道のために「外部の人」に向けて「教会のコンテンツ」を作ることは問題ありません。外の人達が教会の様子を知る、あるいは福音を知るためには「コンテンツ」が必要です。そのために、「コンテンツ」を作ることは良いことだと考えています。ですから、時々そういったものを作ってリリースしてますね。
また、礼拝のうち「メッセージ」の部分について切り出して公開しています。これも「コンテンツ」としては大事だと思います。メッセージだけじゃなくて、もっといろいろやって行きたいなと思います。
でも、「礼拝」は「コンテンツ」になって欲しくありません。「礼拝」はネット上であろうと会堂であろうと、あるいは皆さんの「家」であろうと、「主に捧げるもの」です。「視聴するもの」ではなくて、「主体的に参加するもの」です。
実はそうならないように、いろいろ工夫をして来ました。
以前書いた、「カメラアングルを変えない」ということはその一つです。リアルに礼拝に出ていれば、「カメラアングル」が変わることはありませんからね。そして、「カメラアングル」を変えることが本来何のためにされるかと考えれば、「そこでそれをやってはいけない」と思っています。
この後にやったことは、「あまりきちんとやらない」ことです。
私は元々テレビ放送をやっていたので、「放送」となると時間にきっちりやりたくなるんです。「11時から礼拝」となると、110000から本編開始... が当然であって、それが一番楽。なので、最初の頃は「秒読み」をしていたのを聞いた人もいると思います。でも、これをやめました。
だって、そもそもうちの礼拝ってそんなにきっちり始まったりしませんよね。1分やそこらは軽く前後します。リアルに礼拝に来ていれば、「それが当たり前」なんです。
配信やっていて、いろんなミスをします。通訳してて気がつくことがあるのですが、後でそれをどうこう言ったりはしません。それでいいんです、「いろいろある」のがうちの教会の礼拝でしょう? これを綺麗に上手くやればやる程、「コンテンツ」になってしまうのです。
もちろん「失敗」は出来ません。本当は途中で配信が停止しても「あはは」で済ませたい。と言うか、「配信で届かなかった部分は各自の祈りで対応して下さい」でも良いと思ってますが、さすがにそれは人によると思うので、「失敗」はしないように努力しています。でも、「多少のミス」をやらかして、見ている人がハラハラするのはむしろ良いことだとさえ思っています。だって、そのハラハラしている時の「気持ち」はみんな教会に集まっているんですから。まさか「この下手クソがー」ってディスプレイに向かって何かを投げたりしてないでしょう? 何であっても礼拝は
一体感がある
ってことが大事ですから。「コンテンツ」でなくすためには、この「一体感」が一番大事であって、それをいかに嫌味なく届けるかが、「ネット礼拝」のキモなんだと思っています。会堂に来てなくてネットを見てる人達を「視聴者」「お客さん」にするのではなく、「礼拝参加者」にするのが良いネット配信だと考えています。